長葱

巨匠ガウディが手がけたベンチ目当てにグエル公園を訪ねし二十代。椅子とは人が腰を下ろして休む為の道具。追求されるべきは心地よさのはず。が、拒む椅子というのが当人の作品の一つ。奇抜という媚びぬ作品こそ当人の魅力。ファスナー付きの怪獣など彼をおいて他になく。色やモチーフに込められた意味。既成概念を超えた中にこそ作品の価値が。

企画展こそが集客のカギ、といわれるも常設展とて侮れず。いや、むしろそちらのほうが。今回は焼失したパリ時代の作品の復元。代表作「傷ましき腕」とてその一つ。復元と申してもそちらは実際に本人の手によるものにて。あの異様な色彩の片腕から上体、いわゆる顔の部分に描かれるは赤いリボン。他の作品にも見かけるリボンこそ特徴の一つなれどそのモチーフが意味するものとは。

題と絵が結びつかぬが彼の作品。されど、その作品に触れ、目が肥えてくれば新たに見えてくる世界が。その作品の題や「重工業」。そう、これならば。中央の歯車の回りには人間らしき図柄。人間に隷属すべきものとして編み出されたはずの機械に翻弄される社会を描いた作品と察すれども、人と思しき図柄を黄色にて描いた意味は。

いや、それ以上に作品を凝視する中に浮かび上がる二本の長葱。機械化の対極、農耕の象徴、とするならば人参や大根でも。いや、それこそが天才の閃き、というか直感だったりもして。知れば知るほどにハマる同氏の魅力。川崎市ってやるじゃないか、と思わせるハコモノだと思うけど。そう、知る人ぞ知る川崎市岡本太郎美術館。

そんな同氏に陶酔するは私のみならず。名画「ルクソールの夕日」の作者が夏の個展に向けて始動。準備を始めた様子をSNS上に公開されて。下絵の一枚に見るは明らかにあの作品。当時は一斉を風靡した、というか世間の耳目を一手に。生前の話にて当時を知る由もなく、証言を聞くにその熱狂ぶりや。夢よもう一度と、挑む様子は見聞きすれども未だ盛り上がりに欠けるというか。まだ、数年の猶予、と申してもあっという間に。

万博に先んじて迎えるは本市の百年。その認識こそ広く浸透し、共有されたものの。で、何?というのが巷の空気感にあるまいか。あれだけ宣伝しておきながら未だ機運に乏しきは役所の怠慢。目玉となりし緑化フェアの成功こそ至上命題と重くのしかかる重圧。笛吹けど踊らず、というか期待と現実の乖離の元凶や。

人の百歳とあらばあれだけ盛大に。同じ百歳といえども対象が市制とあらば。それ以前から此処において人は生活を続けてきた訳で。市制を発足させんと奔走された方々やこれまで携わりし方々の功績を蔑ろにするものになく。また、我とて市議の一人として、などとエラそうなことを申し上げるつもりもなく。

百年の意義や否定せぬ、されど、誰が誰を祝うのだろうか。年々の積み重ねに百年の節目を迎えた話にて百年ゆえに何かせねば、との義務感に。全市民が祝って当然、祝意を示さぬは市民にあらず、なんて一部の熱狂ぶりが前のめりだったりせぬか、なんて。

(令和6月4月15日/2847回)